認知

 

認知とは何だろうか

感覚でもなく、知覚でもない。その先にあるもの。それが認知だ。

これだけでは説明にならない。

 

認知とは知ることだ、しかし知覚ではない。

世界を知ることだ。身体を通して。

 

同じベッドに触れたとしてもそれを硬いと感じるのか、柔らかいと感じるのかは、人それぞれだ。

同じ部屋の間取りを見て、広いと感じるのか、狭いと感じるか、同じ景色を見ても綺麗と感じるか、普通だと感じるのか。言い出せばキリがない。

 

同じ物体に触れたとしても、入る刺激がほぼ同じものだとしても、それがどのような意味を持つを持つのか、決めるのはその個人である。

 

この事実は何を意味するのだろうか。

 

我々はあたかも同じ世界で生きているかのように振る舞っている。

”ドア”と聞いたとき、”ドア”を思い浮かべることはできる。しかし、ここで思い浮かべる”ドア”は全員同じものだろうか。

ある人は自然豊かな緑の中にある家のドアを思い浮かべたかもしれないし、自分が住んでいるマンションのドアを思い浮かべたかもしれない。”ドア”という言葉一つとっても、一人一人思い浮かべる”ドア”は違う。しかし、自分と同じ”ドア”を思い浮かべていると思いながら話を進めていく。お互いに。

 

お互いに錯覚しているのだ。

 

本当は違う世界で生きているのに、同じ世界で生きていると錯覚している。

 

世界に意味を与えているのは、個人の身体を通してしかあり得ないのに。

 

個人の身体を通して作られた一人称の世界は、決して他者が入り込める世界ではない。

個人の経験である。

しかし、入り込む必要があるのだ。

我々は様々な経験をしてきたヒトと関わっている。

 

肉ではない。人体でもない。筋肉でもない。目の前のそのヒトなのだ。

 

我々はヒトのリハビリテーションの専門家だ。

 

目の前のそのヒトが一人称の世界で生きているのであれば、当然リハビリテーションもそうありたい。

認知を含まないものは あまりにも寂しい。 あまりにももったいない。

 

そう思わざるを得ない。

 

 

我々は認知を生きている。

 

2020.6/24

 

道具

 

 認知神経リハビリテーションでは、「道具」を使用することがある。それは、行為というものを一つの機能システムとして捉えた場合、構成要素が存在し、その構成要素を評価・介入する上で最も適切な環境にするためには道具が必要であったためだ。必然的に。

必然的にそのような道具を必要とした のである。

 

つまり、ある認知過程が活性化されれば、その構成要素に対して評価・介入ができるのであれば、なんでも良いのだ。(と私は思う)

 

時に道具がなければ・・と思うことがあるが、そうではない。

 

道具はあくまで道具(ツール)だ。

 

そしてそれは我々の中にある。

 

例えばペンが目の前にあったとする。多くの人は文字を書くことにペンという道具を使用するだろう。しかし、頭が痒くて少し書く時には文字を書くためのペンではなく、頭をかくためのものとなる。あるペンが、とある会員制のグループの会員証の代わりとなっていればどうだろう。お店が宣伝のために住所と連絡先を印刷し、配っていたら?

使い方は様々だ。

 

つまり道具とは形がある物品によって使い方が決まっているものではなく、使用者の意図によって決まるのだ。

 

道具の形には製作者の意図が込められており、ある程度の使い方は想像することができる。

しかし、使うのは”わたし”であり、”あなた”だ。制作者ではない。

 

 

認知神経リハビリテーションも”道具”である。

 

ここで道具が意味するものとは、決して形を持ったものではないと理解して欲しい。心理的道具と称されることもある。

 

認知神経リハビリテーションは理論である。

 

手技でもなく、方法論でもなく、理論なのだ。

 

数多く存在する、対象者を回復へガイドするための、一つの道具なのだ。

 

 

固執してはならない。

 

 

しかし

 

一つ・・視座を豊かに

 

少し・・視野を広げることはできるかもしれない

 

知っておいて損はない。そんなものだろう

 

 

 

目の前の人の回復にむけて・・もっと先へ もっと遠くへ 一緒にいくために

 

2020.5/23

行為

 

  この言葉を紐解くには多大な時間を要するようで、一瞬である。学問的に理解しようとすると哲学、神経生物学、神経生理学、認知心理学など様々な学問を求められる。が、そんなに難しいものではない。しかし、行為とは目的を持ったものという単純なものでもない。主体の歴史(life history)が語りかけてくるメッセージなのだ。ここで一つ例をあげよう。女性がカフェで友人と会話を楽しんでいる。彼女は徐にカップに手を伸ばし、コーヒーを飲む。そしてカップを再び同じ皿の上に戻し、会話を続ける。彼女は笑顔で話し、それに友人も応える。時には手で口を覆い、時には手を広げ後ろに体をそらし、感情をダイナミックに表現しながら友人と時間を共有している。それは”楽しい”時間であり、”幸福な”ひとときである。このシーンは行為に溢れている。女性が友人と会話を楽しみながらコーヒーを飲んでいる、ただそれだけなのに。だ。一つのシーンを切り取ってみる。彼女がコーヒーを飲むシーン。彼女はなぜカップに手を伸ばしたのだろうか。カップが飲み物を入れるものだとわからなければ・・。どうだろう、彼女はカップに手を伸ばしただろうか。今までコーヒーをカップで飲んだことがなければ・・。そもそも黒い液体が美味しいコーヒーであると知らなければ・・。しかし彼女はカップに手を伸ばした。彼女は知っていたのだ、カップには黒い液体が入っており、黒い液体はコーヒーと呼ばれるもので飲むことができると。なぜ・・?経験してきたからだ。周囲を観察することで。周囲と関わることで。

 

  我々は私がいかにも私であるかのように振る舞い、いかにも私の思考、私の行動であると錯覚し、振る舞っている。我々は私の思考が私のものであると思っているが、本当にそうだろうか。私一人では私は生まれない。他者がいるから、私があり、環境があるから、私以外が生まれる。周囲(他者、環境)によって私は生まれ、そこには私としての経験が存在する。

 

  彼女はカップに手を伸ばした。皿でもなく、友人の手でもなく、カップに。彼女はあらゆる可能性がある中から、”カップ”に手を伸ばすことを”選択”した。

彼女はカップに手を伸ばした。足でもなく、首でもなく、手を使って。彼女はあらゆる可能性がある中から、カップに”手を伸ばす”ことを”選択”した。

手を伸ばす光景は美しく、洗練されていた。直線でもなく、曲線でもない、なんとも言えない美しさがあった。彼女は誰かに教わったのだろうか。親に?教師に?何から学んだのだろうか。どんな経験をしたのだろうか。なぜカップに手を伸ばすことを”選択”した(できた)のだろうか。

 

  我々が普段目にしているものは何だろうか。我々が普段行なっているものは何だろうか。どんな文脈、どんな環境によって”それ”は表現されているのだろうか。

 

彼女は次はどこのカフェに行くのだろうか。

 

彼女は次は何を飲むのだろうか。

 

彼女は次は誰と”幸福”なひとときを過ごすのだろうか。

 

 

・・・私は今日も選択する

 2019.6/1