行為

 

  この言葉を紐解くには多大な時間を要するようで、一瞬である。学問的に理解しようとすると哲学、神経生物学、神経生理学、認知心理学など様々な学問を求められる。が、そんなに難しいものではない。しかし、行為とは目的を持ったものという単純なものでもない。主体の歴史(life history)が語りかけてくるメッセージなのだ。ここで一つ例をあげよう。女性がカフェで友人と会話を楽しんでいる。彼女は徐にカップに手を伸ばし、コーヒーを飲む。そしてカップを再び同じ皿の上に戻し、会話を続ける。彼女は笑顔で話し、それに友人も応える。時には手で口を覆い、時には手を広げ後ろに体をそらし、感情をダイナミックに表現しながら友人と時間を共有している。それは”楽しい”時間であり、”幸福な”ひとときである。このシーンは行為に溢れている。女性が友人と会話を楽しみながらコーヒーを飲んでいる、ただそれだけなのに。だ。一つのシーンを切り取ってみる。彼女がコーヒーを飲むシーン。彼女はなぜカップに手を伸ばしたのだろうか。カップが飲み物を入れるものだとわからなければ・・。どうだろう、彼女はカップに手を伸ばしただろうか。今までコーヒーをカップで飲んだことがなければ・・。そもそも黒い液体が美味しいコーヒーであると知らなければ・・。しかし彼女はカップに手を伸ばした。彼女は知っていたのだ、カップには黒い液体が入っており、黒い液体はコーヒーと呼ばれるもので飲むことができると。なぜ・・?経験してきたからだ。周囲を観察することで。周囲と関わることで。

 

  我々は私がいかにも私であるかのように振る舞い、いかにも私の思考、私の行動であると錯覚し、振る舞っている。我々は私の思考が私のものであると思っているが、本当にそうだろうか。私一人では私は生まれない。他者がいるから、私があり、環境があるから、私以外が生まれる。周囲(他者、環境)によって私は生まれ、そこには私としての経験が存在する。

 

  彼女はカップに手を伸ばした。皿でもなく、友人の手でもなく、カップに。彼女はあらゆる可能性がある中から、”カップ”に手を伸ばすことを”選択”した。

彼女はカップに手を伸ばした。足でもなく、首でもなく、手を使って。彼女はあらゆる可能性がある中から、カップに”手を伸ばす”ことを”選択”した。

手を伸ばす光景は美しく、洗練されていた。直線でもなく、曲線でもない、なんとも言えない美しさがあった。彼女は誰かに教わったのだろうか。親に?教師に?何から学んだのだろうか。どんな経験をしたのだろうか。なぜカップに手を伸ばすことを”選択”した(できた)のだろうか。

 

  我々が普段目にしているものは何だろうか。我々が普段行なっているものは何だろうか。どんな文脈、どんな環境によって”それ”は表現されているのだろうか。

 

彼女は次はどこのカフェに行くのだろうか。

 

彼女は次は何を飲むのだろうか。

 

彼女は次は誰と”幸福”なひとときを過ごすのだろうか。

 

 

・・・私は今日も選択する